scriniarius Togawanus

復習がてら古典作品の対訳を書くだけです。

古典ラテン語から古仏語までの概略史

 西洋古典といえば,ギリシア語と並んでラテン語ですが,ラテン語は紀元前1世紀,散文をキケロに,韻文をウェルギリスに,それぞれ範を取り,「古典ラテン語」と呼称される完成形を見ることとなります。その後の歴史の中で,古典ラテン語は民衆的な俗ラテン語を経て変貌を遂げ,中世の段階で様々な言語に分化していました。その一つが古フランス語ancien françaisです。

 先学期,古仏語の講義(『メルラン(マーリン)』の講読)を履修し,期末レポートが課されたのですが,生憎中世文学には全くの素人なのでまともなものが書ける気がせず,上記の変遷を簡単にまとめることにしました。折角なのでこちらに投稿します。

 言語学に関しても全く明るくないため,二次文献に頼った,ほとんど理論を含まない変遷史になっており,大した内容ではありませんのでご容赦を。

 

無理にコピペしていますので表示が変だった場合はこちらをお使いください(元データ)

https://1drv.ms/b/s!AmdAVvA0ZcISg95QLzxpafgTAv3dbw

 

以下本文です。

 

 
 
 
 

はじめに

 本報告は,演習で取り扱った古フランス語の成立について関心を抱いた古代ローマ史専攻たる報告者が,ローマによるガリアの征服とラテン語の導入から最古のフランス語テクストたる『ストラスブールの誓約』までを主だった範囲として,1万字程度の分量を以って俗ラテン語を経て古フランス語に至るまでの変遷を辿ろうと試みたものである。遺憾ながら報告者は言語学に明るくないため,音韻論について十分に理解したと言えないまま二次文献を頼り,外面上の変化を辿ることしか叶わなかった。テーマとしてはあまり斬新なものとはいえないが,概説的かつなるべく詳細に1000年の歴史を追えるようにしていきたい。

 

 

今日のフランスは,ローマ時代にガリアと呼ばれていた地域に含まれる。ガリアには元来イベリア人,リグリア人,ギリシア人が居住していたが,紀元前500年頃に中東欧から西に移動し始めたケルト人の一派ガリア(ゴート)人が紀元前300年頃,先住民と入れ替わりに定住するようになった[1]。彼らの隣人であったギリシア人,或いはマルセイユ人はその文明をガリア人に伝えたものの,海を活動の舞台とするギリシア人・マルセイユ人とガリア人は真に融合することはなく,その交流はある種敵対的であった。したがってギリシア語はガリアにおける文明語となる機会を逸し,南仏の方言プロヴァンス語にその痕跡を幾つか残すに留まった。ガリア人はガリア語を用い続けたのである[2]

ガリア地方の内,フランス南部(プロヴァンス地方)にあって最もイタリアに近い「ガリア・ナルボネンシスGallia Narbonensis」(別名「ガリア・トランサルピナGallia Transalpina」)は早くも紀元前121年に,ギリシア人の要請を容れた執政官クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アッロブロギクス,並びに前執政官グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの遠征軍によって征服され,ローマの属州となる。イタリアとの地理的近接性によって多くのローマ人が移り住んだことで,ローマの文化は深く浸透,ラテン語も用いられるようになる。

続いて紀元前58~51年のガイウス・ユリウス・カエサルによる諸遠征によってガリア全域がローマの支配下にはいり,3つの属州が設置される。その名称は,現在のフランス北部・中部が「ガリア・ルグドゥネンシスGallia Lugdunensis」,北部(ベルギー方面)が「ガリア・ベルギカGallia Belgic」,南西部が「ガリア・アクィタニアGallia Aquitania」として振り分けられた。

この属州においては,ラテン語は統治のための公用語であり,文明の代表であった。ガリア人の貴族はローマ市民権を与えられ,すなわちローマ人へと吸収されることでラテン語の人口は増加した。また,さほど大規模とはいえないものの,退役兵,奴隷らがイタリア半島から移住し,自らの言語をガリアに浸透させていく。そして,以前は存在しなかった「学校」がガリアにローマ文明を普及させていき,決定的にガリアをラテン化することになった[3]

この時より西ローマ帝国の滅亡する紀元475年まで,ガリアは(一応は)ローマの支配下にあった。すなわち,ガリアはラテン語にさらされ続けていたということである。

ただし,ラテン語の完全なる浸透はガリアにおいて非常に緩慢な過程であった。早くからローマに占領された「ガリア・ナルボネンシス(ガリア・トランサルピナ)」こそ紀元1世紀以後ラテン語のみが話されるようになっていたが,その他のガリア地域では紀元4世紀,あるいは5世紀までガリア語が話され続け[4],さらにケルト語はその後数世紀にわたって息を伸ばし続けたと考えられている[5]。すなわちガリア語との500年の共存期間(ケルト語はそれ以上)があったということになる。この緩慢さが,のちのフランス語を生むこととなるのである。

また,そもそもガリアのラテン化も都市部が中心であり,ローマの影響は農村には,直接的には達しなかった。したがって,都市部で流通する物品は該当するラテン語に置き換えられるものの,農村の住民のみが詳しく知る物品やガリア人のみが持っていた技術[6]に関する用語は,ガリア語のままやがてラテン語に導入されることとなる[7]。また,既に発音はイタリア半島とガリアの間で,また,ガリアの都市と農村の間でも既に若干の違いを生じていた。ガリアのラテン語は,その導入の早い段階から独自性を歩み出していたということができる。

 

 

 

歴史的変遷

 斯くしてガリアに流布したラテン語には2つの形,すなわち古典ラテン語俗ラテン語がある。続いては,この差異について述べなくてはならない。

 そもそもラテン語は紀元前5世紀まではローマとラティウム地方のみで用いられていた地方語であったが,ローマが地中海世界へと領土を広げていく中で,急速に普及したものである。紀元前280年に完了するイタリア半島統一,そしてそれに続くポエニ戦争の中で,ローマ人は南伊のギリシア人諸都市との交流を密とする。ローマ人は優れたギリシア文学を手本としてラテン文学を生み出すようになり,言語として成熟し,豊かになった。散文はキケロによって,韻文はウェルギリウスによって,それぞれ頂点に達し,このころ(BC 70 ~ AD 14)のラテン語を我々は「古典ラテン語Classical Latin」と呼ぶ。

 一方,文語としてのラテン語の発展と歩調を同じくして,口語の乖離が進んでいく。口語は外界的な影響,生物的な口調の法則に影響を受けやすく,文語(古典ラテン語)との間のみならず,時代や地域間,職業や階層間でも差異が生じることとなる。この中で,特に,ローマ帝国の圧倒的大多数を占めていた,文字の読み書きのできない一般大衆が用いていた口語は「俗語sermo vulgaris」と呼ばれ[9],それを我々は「俗ラテン語Vulgar Latin」と呼び変える。さらに述べると,「学校教育と文学上の手本と影響を,ほとんどあるいはまったく受けていない諸階層の話し言葉[10]」が「俗ラテン語」と定義される。

 続いては,「古典ラテン語」から「俗ラテン語」への変遷に伴う,4つの主要な差異について概略的に記載する。

 

音韻上の変遷

 「古典ラテン語」と「俗ラテン語」との大きな差異の一つは,アクセントの性質である。「古典ラテン語」が高低アクセントであったのに対し,「俗ラテン語」は強弱アクセントである。この具体的なプロセスは不確定であるが,俗ラテン語における本質的な母音変化のすべての原因は,この強弱アクセントの誕生にあるとされる[11]。フランス語を含む現在のロマンス諸語は強弱アクセントであり,この変化を以って近代語への第一歩を踏み出したと考えることもできよう。なお,この変化に伴ってアクセントの位置は変化しなかった。これはロマンス語にあっても保存され,すなわちほとんどの単語において古典ラテン語のアクセント位置が保存されているということになる[12]。この他にも,「俗ラテン語」は多くの音韻上の変化を「古典ラテン語」から遂げている。例えば,「喉頭帯気音hの消失」「子音群の単純化」が挙げられるであろう。これらは,ロマンス語,あるいはここで問題としている古フランス語の発音・綴りに連なるものである。

 

「曲用」の変遷

 続いて重要になるのは「屈折」すなわち語尾変化である。第一に,名詞の語尾変化(「曲用」)について述べる[13]

「古典ラテン語」の多様な名詞活用は,一定の規則に従っていたが,しかし,多くの場合不均整なものであり,多くの誤謬のもととなった。誤謬は格の混同・同一化をもたらすこととなり,従って「俗ラテン語」への変遷の歴史は,主として格体系の縮小の歴史ということになる。以下では,この流れを簡単に記載する。

  •  まず大きな同一化の1点目として,遅くとも5世紀頃までには語末の “-m” が消滅し,次いで語末音節の母音が同一化したこと(長短の区別の消滅・音色の区別の消滅)が挙げられる。これは口語としての「俗ラテン語」の性質に依るものであり,音韻上の変化である。一方で,西ローマ帝国崩壊期まで進んで尚, “-i”, “-s” といった語尾は音韻変化の波に耐えた。すなわち,多くの単数主格形は他の格と区別され,属格や,第3変化単数与格もその個性を保つこととなった。
     一方,複数形ではほぼすべての格が保存されていた。だが,第1変化の複数主格 (“-ae”) が (“-as”) へと取って代わられる事例が5世紀以降ガリアにおいて広がっていく[14]。このことで,第1変化に関して複数主格形と複数対格形が同一となる。ところで第3~5変化にあってはもとより複数形の主格と対格が同じ形態を持つため[15],結果的に主格と対格が異なる複数形を持つものは第2変化のみとなった。
  •  また,全体の傾向として対格と奪格の区別が失われる。これは音声上の問題に加えて,これとは別に,前置詞が関わる格であったために意味上の混同が起こりやすかったことも関係している[16]。この混同は対格が優勢であった。
  •  そしてさらに,与格と属格が近接していく。元来「利害の与格 commodi et incommodi」「心性的与格dat. ethicus」といったものが,属格の持つ「所有」のニュアンスによって置き換えることが可能であったこともあり,後期ラテン語においては「所有」のニュアンスを有した与格(「所有の与格」)が多用される。一方,例は少ないものの,与格を用いるべき箇所で属格が用いられるということも見られ,遂に与格と属格は溶け合い,機能として等価になる。
  •  ところで,「古典ラテン語」にあっては,機能が隔たっていたにも関わらず,与格と奪格の形態は同一であることが多い(すべての名詞の複数形,第2変化名詞の単数形)。これによって,先程の与格と属格との結合体が奪格を抱き込むこととなる。
  • 更に,②で述べた対格と奪格の意味上の混同がこの結合体を侵食する。

ここまで述べたように,最終的に6世紀中頃の話し言葉では,属格・与格・対格・奪格(すなわち「斜格」)が同一の形態(形としてはかつての対格)を持つようになる。そして,この二格体系すら他のロマンス語圏では7世紀後半には既に過去のものとなったにも関わらず,古フランス語(並びに古プロヴァンス語)においては保存されることとなったのである。

以下にここで述べた名詞の曲用の変遷を表にまとめる[17]。最下段には参考として,それぞれ変化として対応する古フランス語を掲載した。

 

 

Sg.

Pl.

 

 

Nom.

Gen.

Dat.

Abl.

Acc.

Nom.

Gen.

Dat.

Abl.

Acc.

 

1

 

rosa

rosae

rosae

rosā

rosam

rosae

rosārum

rosīs

rosīs

rosās

 

rosa

rosae

rosae

rosa

rosa

rosas

rosaro

rosis

rosis

rosas

①        

rosa

rosae

rosae

rosa

rosas

rosaro

rosis

rosas

②        

rosa

rose

rosa

rosas

rosis

rosas

③        

rosa

rose

rosa

rosas

rosis

rosas

④        

rosa

rosa

rosas

rosas

⑤        

fille

fille

filles

filles

 

2

 

dominus

dominī

dominō

dominō

dominum

dominī

dominōrum

dominīs

dominīs

dominōs

 

dominus

domini

domino

domino

domino

domini

dominoro

dominis

dominis

dominos

①        

dominus

domini

domino

domino

domini

dominoro

dominis

dominos

②        

dominus

domino

domino

domini

dominis

dominos

③        

dominus

domino

domino

domini

dominis

dominos

④        

dominus

domino

domini

dominos

⑤        

murs

mur

mur

murs

 

3

 

nātiō

nātiōnis

nātiōnī

nātiōne

nātiōnem

nātiōnēs

nātiōnum

nātiōnibus

nātiōnibus

nātiōnēs

 

natio

nationis

nationi

natione

natione

nationes

nationo

nationibus

nationibus

nationes

①    

natio

nationis

nationi

natione

nationes

nationo

nationibus

nationes

②    

natio

nationi

natione

nationes

nationibus

nationes

③    

natio

nationi

natione

nationes

nationibus

nationes

④    

natio

natione

nationes

nationes

⑤    

none

nonain

nonains

nonains

 

                               

 

音韻上の混同と機能上の混同は同時に進行し,音韻上の混同が起こりにくいような格でも機能の類似性が曲用を混乱させ,一方で全く機能が異なった格同士が音韻上の類似性によって一つの格に収束していく。すなわち,このような変化は番号順に進行したのではなく,相互に干渉しながらであったと考えられるのである[18]

格の減少に関しては,さらにもう一つの要因が存在し,それは「入れ替え可能性」である。これは,同様の音韻変化の波を受けつつも動詞の「活用」が比較的保存された(後述)一方で,何故名詞では変化のヴァリエーションが減少したのかを特に説明する。この「入れ替え可能性」は,簡単に述べると,前置詞を伴う表現が各々の格の機能を代用するということである。前述の②で述べた通り,前置詞の支配は対格に一本化されつつあった事,あるいは前置詞そのものの不変化性が格変化よりも好まれるようになったといえる。

また,以上で述べた格変化の単純化と並行して,「性」の単純化が起こる。すなわち3性からなる「古典ラテン語」から中性名詞が失われ,現代のロマンス語のごとく男性と女性の2性へと収束していく。魁としては早くも西暦の始まりにおいて,中性複数名詞 (“-a”) のうち集合的意味を持つものが女性名詞として扱われるようになっている。一方で中性名詞と男・女性名詞の差異性は10世紀のラテン文においても意識されており,まず薄れていったのは名詞そのものの性区別ではなく,関係代名詞との性一致であった。関係代名詞は,発達していく中で “qui”, “quem” が男性ではなく「人」を表す先行詞に用いられ, “quod” が中性ではなく抽象的な「モノ」を表す先行詞に用いられるようになった。これは性の機能がほとんどなくなりつつあったことを示し, “-o” と “-a” のように明確な音声的区別があった男性名詞と女性名詞は隔てられた一方で,役割と音韻上の特徴を持たなくなった中性名詞は次第に廃れていく運命と成るのである。

また,指示代名詞も発達過程で複雑に変遷しつつ単純化の道をたどる。詳細は後述するが,いくつかは古フランス語に引き継がれていく。ただし,如何様な過程を経ていったかを示す発達は,俗ラテン語文の中に見ることはできない。

 

「活用」の変遷[19]

 

「屈折」についての第2の話題として,動詞の語尾変化,すなわち「活用」の変遷を追う。

 「活用」は,実質上消え失せた「曲用」とは打って変わり,音韻に伴う綴の変化を除けば「古典ラテン語」の規則が「俗ラテン語」においてもよく保存され,ロマンス諸語に引き継がれるどころか,さらに豊かさを増していく。語るところは多いが,紙面と時間の都合上,特に際立つものを幾つか記述するに留めたい。
 まずは,最も注意すべき変化として未来形を掲げておきたい。「俗ラテン語」にあって未来形は,音声上他の時制と混同されることで,本来の「未来」としての明確な意味を失っていく。具体的には,第1,2変化活用では,母音間の “-b-” が音声として弱体化して,完了形と音声上の区別がなくなっていく[20]。また,第3変化活用では,語末音節の “-i” と “-e” が混同されたことで現在形と未来系の区別がなくなっていく[21]。したがって俗ラテン文にあって「未来」のニュアンスを示すために単なる現在形や別の迂言法を用いるようになるということが起こる。特に大きな将来性を伴う「未来」を表すためには “inf. + habere” という形が主流となっていく。この “inf. + habere”  が本来の未来形に取って代わって,ロマンス語における未来形の系譜を担うこととなる。ただし,時制系全体の構造は一切変化しておらず,対応する語形が変化しただけであるということには留意する必要がある。 “habere” が動詞の活用語尾と化したものが,古フランス語の,或いは現代フランス語の未来形ということになる(特徴的な “-r-” は “habe-r-e” に由来する)。

 続いては,本報告では古フランス語への変遷を扱う以上,これに特徴的な複合時制の誕生について,特に述べていきたい。

一つは受動形についてのものであり,ここでは “amare” を例とする。詳しい経緯は一切不明であるものの,本来それぞれ受動完了,受動過去完了であったはずの “amatus sum” “amatus eram”がそれぞれ現在,未完了過去として用いられるようになっていった。この変化は,「古典ラテン語」には存在しない “amatus fui”, “amatus fueram” という新しい完了受動の表記法が何処かの時代において開発されたことによって齎されたと考えられている[22]。本来の受動現在,或いは未完了過去であった “amar” “amabar” は,複雑であったためか,徐々に消滅していく[23]。この表記が古フランス語(更には現代フランス語)の受動形 “estre + p.p.” に一致することは言を俟たない。

 もう一方は, “habere + p. p.” の用法である。用例自体は古くから,例えばリーウィウスの時代から存在したものの, “habere” と動詞の過去分詞形はそれぞれが独立した意味を有していた。例えば, “circumfusum suis copiis haberat hostem” 「彼は味方の軍勢で包囲された敵を持っていた」という文章では, “habere” は主語が「保持する」という意味を持ち,動詞の過去分詞形は主語によって客体に齎された状況を示している。しかし過去分詞が精神的な働きを示す場合,この二語の区別はなくなっていく(例えば “habeo eum cognitum” 「私は知られた彼を持つ」と “eum cognovi” 「私は彼を知っていた」の意味的な可換性)。このような用法は当初は稀で,しかも「知る」という意味の動詞に限られていたが,6~10世紀のある段階で一般化するようになる。 そしてこれは, “habere”が “avoir” に相当することを指摘すれば,フランス語の複合過去にまさに一致するのである[24]

 

 

 

前節では「古典ラテン語」から「俗ラテン語」へと変化していく際の一般的な差異について,音韻と形態の観点に絞って述べた。今後はこの「俗ラテン語」から「古フランス語」への歴史的変遷を記述する試みをしたい。

第1節で述べた経緯を経てガリアにラテン語が齎されて以後,紀元後の最初の数百年「俗ラテン語」は,それ自体は次第に第2節でその一例を述べた通りの変遷を遂げつつも,しかし言語的な統一性を保ち続ける。

ガリア語は,先述の通り幾つかの特徴的な語彙をガリアのラテン語,あるいはかなり稀だがラテン語全体の語彙へと遺し,5世紀の終わり頃には消滅する。先立って西ローマ帝国が滅亡し(476年),ガリアがローマ,或いは他の属州と次第に切り離されていったこともあり,既に地域特有の単語と完全なる言語的分化を予感させる音声的傾向が存在していた。しかし一方,まだガリアのラテン語は他地域と非常に近接したラテン語であった[25]。言語の地域的独立性は次第に高まっていったはずだが,どの段階で古フランス語の出発点となる言語へと変化したかは判断することはできない。これは「文語ラテン語」が「口語ラテン語」の影響を排して地域を超えた統一性を維持したため,たとえ俗的な文献であっても,当時口頭で語られていたラテン語を曖昧にしか反映しないからである[26]。史料によって明らかにされるのは,イタリアの俗ラテン文とガリアの俗ラテン文が8世紀においては明らかに相違しているということのみである。

以上より,些細な変化は紀元後早くから既に起こっていたとはいえ,本質的な変化は,西ローマ帝国の崩壊した5世紀において決定的に開始され,8世紀後半にはラテン語はもはや統一的な伝達手段ではなくなっていたと見なす研究が大半であり,そしてそれ以上の確定した結論を出すことはできないのである[27]

さて,5世紀以降のガリアには,ガロ=ロマン人(この段階ではガリア人ではなくこう呼ぶのが相応しいであろう)の他にゲルマン民族の一派たるフランク人が居住していた。以上で述べたラテン語の変貌について,具体的な時間を与えることはできずとも,その要因をフランク人に帰することはできるであろう。

フランク人自身はガリア定住当時殆どがラテン語を解さなかった。しかし,メロヴィング家のクローヴィスがアリウス教徒たる西ゴート族と戦う際に司教の支持を受けようとしたことで,フランク人はローマ教会の一員となる。そしてその公用語たるラテン語を宗教語として受け入れた彼らは,ゲルマン語の語彙を一部(但し現代語において重要なものである)提供しつつも,ラテン語化したのである。このことによってフランク領の境界線が,ロマンス語とゲルマン語とを隔てることとなった[28]

しかしフランク人はラテン語に大きな音声上の変化をもたらす。それというのは,ゲルマン式の強い呼気による強勢を与えたことである。このことがフランス式の語彙・発音に大きな影響を与えることとなる。すなわちある母音に強勢が置かれることで[29],その前の音節は語中音消失し,その後ろの音節は縮減する。これに伴い,幾つかの例外を除いて,非強勢の語末は音節を失うこととなった。そしてその「例外[30]」にあっては,古フランス語,或いは現代フランス語において唯一許される非強勢母音たる [ə] に収束し,古フランス語では “a, o, e” ,そして現代フランス語では “e” と綴られるのである[31]。以上の文献に現れない変化は,最古のフランス語テクストとみなされる「ストラスブールの誓約」で証拠付けられ,9世紀には概ね完了していたという結論しか我々は知ることができない。

なお,ゲルマン語の影響は北部においてより強く,従ってフランス語の発達の基礎となる以上の発音変化は,フランス北部の方言として始まったのである。南部はより保守的で大きな変化は被らず,我々はそれを総称してオック語(オクシタン語),或いはプロヴァンス語と呼び,今日まで引き継がれた別の系統となるのである[32]

こうして音声的に決定的に変質したこの言語は,トゥール司教会議において “rustica romana lingua” と呼称され,ラテン語と区別されることとなる[33]。この背景にはラテン語そのものの変化が存在する。すなわち,カール大帝治世下の伝統回帰,所謂カロリングルネッサンスによってラテン語が古典期の純正さを多くの面で取り戻し,それ故に口語のラテン語との乖離は決定的なものとなって,後者をラテン語と呼ぶことはもはや相応しいこととはいえなくなったのである。

これを以って,我々がここまで扱ってきたガロ=ロマンス語の諸方言体系たる言語は,古フランス語の最初期たるものとして扱うことができるのである[34]

フランス語で書かれたとされる文献の最古たるものは,先ほど名前を上げた842年の「ストラスブールの誓約Serments de Strasbourg」であり,ニタールNithardによるラテン語年代記『ルイ敬虔王と息子たちの歴史』に原文で引用されている。この誓約はシャルル・マーニュの息子ルイとシャルルが長兄ロテールに対抗して同盟を結んだもので,ルイはシャルルの家臣によって理解されるようロマンス語で誓い,シャルルは他方ドイツ語で誓った[35]。ルイが用いたロマンス語は,ラテン語の特徴を十分に残しながらも,先行するテクストとは一線を画しており,先程述べた地域的音声変化の結果と対応する綴りを示す[36]。これは公文書ゆえ言語学的テクストとして至上の価値を持つものではないが,幸いにしてこれを補足するものがあり,900年頃に書かれたフランス最古の文学的文献である『聖女ウーラリーの続唱Séquence de sainte Eulalie』である[37]。これら2つの資料は特別視され,特に「最古フランス語」として扱われることが多い[38]。古フランス語の始まりとしては,この「ストラスブールの誓約」が著された842年か,或いは当時の口語を明確にラテン語と区別した証拠であるトゥール司教会議が開催された813年に置かれるのがほぼ共通した見解である[39]

 

 

総括

 

ここまで概観してきた,ラテン語から古フランス語までの変遷を今一度簡単にまとめると以下のようになる。

すなわち,紀元前70年に完成した文語たる「古典ラテン語」は,その誕生とほぼ同時に口語との乖離を生じ始め,自然的発声に基づいた変遷を遂げることとなる「俗ラテン語」を生ずる。語尾子音の脱落,母音の音声の同一化と言った音韻上の変化,あるいは機能の同一視を経て,ラテン語を特徴づける名詞の豊かな曲用は次第に失われていき,主格と斜格(被制格)の2格のみが残され,動詞は一方で豊富さを増していく。現在のフランスに当たるガリアに居住していたガリア人はローマ人の征服を受けてラテン語を受け入れたが,完全な浸透には数百年の時間を要し,ガリア語,ケルトごとの併存期間が続き,幾つかの語彙を提供する。それでも,西ローマ帝国が滅亡して地方的な自立性が高まっても尚,ガリアにおいて発達していった俗ラテン語は他地域のそれと本質的に共通・同一であった。しかしフランク人がガリアに居住したことでゲルマン語の強勢的発音が俗ラテン語に取り入れられ,ラテン語は大きな転換を迎える。ガリアのラテン語は,現在のフランス語を特徴づける発音(特に語尾弱勢母音の消滅),或いは綴りを獲得し,次第に独立性を高めていく。8世紀後半の段階ではガリアのラテン語はイタリアのそれとは決定的に相異なっており,813年のトゥール司教会議においてその口語は “rustica romana lingua” というラテン語と決定的に区別された呼称を得る。そして842年に記録された「ストラスブールの誓約」は,そこにおいて話された言語の,明らかにラテン語と隔たった,「最古フランス語」と呼ぶべき痕跡を我々に伝える。これをもって「古フランス語」が誕生したとみなされるのである。

フランス語は,自らも『ガリア戦記』によって「古典ラテン語」の黄金期を築いた代表的な作家であるユリウス・カエサルによってガリアが平定されたところからその歴史を開始し,当初はラテン語の変遷と軌を一にしつつも,旧来のガリア語,ケルト語,あるいは5世紀以降はゲルマン語の影響によって独自性を高めていき,ついに9世紀を以て,完全に独立した言語の歴史へと転換していくのである。

今回,二次研究のみを参照し,古フランス語形成までの歴史を表面的になぞるに留まってしまい,例を用いて具体的な議論を行ったり,何らかの新たな仮説といったものを提供することはできなかった。また,今後ガリアに侵入するノルマン人,アラブ人の語彙も『メルラン』の時代の古仏語の語彙に影響を与えていたと考えられ,しかしそこまで筆を至らせることも叶わなかった。報告者に一切の前提知識がなかったため,同じくラテン語から古仏語への変遷を追う目的でも,実際のテクストにあたってある特定の語の変化をたどるといった取り組みなど,報告としてより新鮮な,望ましい手法を取ることができなかったのは遺憾である。本報告は,報告者自身の学習の一環として,ある程度の情報量を盛り込みつつ,ただし重要な幾つもの話題を捨て去ることで,極めて概略的に古仏語形成史を追うことをかろうじて果たしたのみである。

 

[1] Rickard (伊藤・高橋訳 1995): p. 5.

[2] von Wartburg (田島他訳 1976): pp. 22-26.

[3] von Wartburg (田島他訳 1976): pp. 27sq.

[4] Rickard (伊藤・高橋訳 1995): pp. 10 et 15.

[5] Herman (新村・国原訳 1971): pp. 24-25.

[6] 例えばビールの製造についてはガリアで重要視されていた一方,ローマでは未知であった。

[7] von Wartburg (田島他訳 1976): pp. 29-35.

[8] 本節の基本的な記述は,國原 (2007): pp. 1-3に依拠する。本節に関して別個に引用する場合のみ,新たに註を付すものとする。

[9] 地域間・階級間の口語の差異についてはローマ人も「都会言葉sermo urbanus」「田舎言葉sermo rusticus」「兵隊語sermo castrensis」のように区別しており,「俗語sermo vulgaris」もその中の一つということになる。

[10] Herman (新村・国原訳 1971): p. 18.

[11] Herman (新村・国原訳 1971): pp. 47-48.

[12] Herman (新村・国原訳 1971): pp. 48-49. 例として civitátem → cité, púlurem → poúdreが挙げられている。

[13] 曲用については,多くの記載をHerman (新村・国原訳 1971): pp. 60-76,並びにvon Wartburg (田島他訳 1976): pp. 39-41 に依拠した。

[14] 但しこの変化はガリアにはむしろ遅れて入ってきたものであり,多くのローマの属州においては紀元後の最初の数世紀の時点ですでに現れていた。

[15] むしろ第1変化において複数主格と対格の混用が起こったのは,この影響という考え方も可能である。この他に,ラテン語と同様のイタリック語であるオスク語とウンブリア語が “-as” で終わる複数主格形を持っていたことも要因の一つと考えられている。

[16] 単数では “-m” の消失による音韻上の混同が考えやすいが,複数では機能上の混同がより重要な要素とは言えるかもしれない。

[17] Herman (新村・国原訳 1971): pp. 60-69の記述をもとに報告者が作成。

[18] なお,俗ラテン語の変遷においてもう一点重要なものとして,イタリア以東においては “-m” と同様に語末の “-s が脱落したことが挙げられる。したがって第2変化の例から分かる通り,東部の俗ラテン語では単数と複数を区別するものは主格しかなかった。この点についてはフランスを始めとするロマニア西部では採用されず,例えばイタリア語の “muri” と古フランス語の “murs” の違いを説明することになるだろう。今回はここで簡単に触れておくに留めるとする。Cf. von Wartburg (田島他訳 1976): p. 65.

[19] 「活用」については,主にHerman (新村・国原訳 1971): pp. 76-85,並びにvon Wartburg (田島他訳 1976): pp. 45-50 を参考にした。

[20] 例としては第1変化活用 “amare” の3人称単数未来形 “amabit”と同完了形 “amavit”,第2変化活用 “monere” の3人称単数未来形 “monebit”と同完了形 “monevit” を挙げることができる。

[21] 例としては第3変化活用 “regere”の3人称単数未来形 “reget” と同現在形 “regit” を挙げることができる。

[22] “fui”, “fueram”はそれぞれ “sum” の完了,過去完了形。

[23] 但し,これはどうやらかなり漸進的な変化であり,メロヴィング朝の公文書であっても「古典ラテン語」の正式な受動形の用法が見られる。

[24] なお, “estre + p.p.” の形の複合過去には,異態動詞(デポネント)が影響を及ぼしたと考えられる。すなわち,形は受動ながら意味は能動であり,さらに動詞の完了形に近い “locutus esse” が “ventus esse” のような形の完了形の手本になったといえる。

[25] Rickard (伊藤・高橋訳 1995):p. 15.

[26] ただしこの「文語ラテン語」は「古典ラテン語」を規範としつつも,やはりある程度は「口語ラテン語」を反映し,すでに変質していた。

[27] Herman (新村・国原訳 1971): pp. 123-125. 尚,比較音声学の立場から根本的な特色の幾つかにおける変化が3世紀には既に生じていたとする立場もあるが (Straka, G. (1953) “Observations sur la chronologie et les dates de quelques modifications phonétiques en roman et en français prélittéraire”, Revue des Langue romanes, pp. 247-307) ,Hermanは文献の組織的研究に基づいていないとして懐疑的である。Cf. Herman (新村・国原訳 1971): p. 125.

[28] von Wartburg (田島他訳 1976): pp. 61-65.

[29] この強勢の位置はラテン語の正しいアクセント位置であった。

[30] 例えば語末が “-a” であった場合など。

[31] 以上,Rickard (伊藤・高橋訳 1995):pp. 27-28.

[32] Rickard (伊藤・高橋訳 1995):p. 29.

[33] 「transferre in rusticam Romanam liguam, aut in theotiscam, quo facilius cuncti possint intelligere quae dicuntur”:『皆が話をより容易に理解できるよう,〔説教を〕地方のロマン語かゲルマン語に移すこと』」(von Wartburg (田島他訳 1976): pp. 73.)

[34] 以上,Rickard (伊藤・高橋訳 1995):pp. 32-34.

[35] von Wartburg (田島他訳 1976): p. 74.

[36] Rickard (伊藤・高橋訳 1995):pp. 35-39.

[37] Chaurand (川本・高橋訳 1973): pp. 10-11.

[38] 島岡 (1982): p. 1.

[39] 古フランス語の時代区分に関しての各研究者の見解は,今田 (2002): pp. 21-29 に詳しい。

 

主要参考文献一覧

邦訳書の出版されているものに関して,その書誌情報を[ ](全角大かっこ)内に示した。

本報告では訳書を参照し,以下の凡例の通り本文脚注内に引用した。

 

例:Herman (新村・国原訳 1971): p. 35

 

Allières J. (1982) La formation de la langue française, Paris[大高 順雄訳 (1992) 『フランス語の形成』白水社].

Chaurand, J. (1969) Histoire de la langue française, Paris[川本茂雄,高橋秀雄訳 (1973) 『フランス語史』白水社].

Herman, J. (1967) Le Latin Vulgaire, Paris. [新村猛,國原吉之助訳 (1971) 『俗ラテン語白水社].

Rickard, P. (1989) A History of the French Language, 2nd ed., London[伊藤忠夫,高橋秀雄訳 (1995) 『フランス語史を学ぶ人のために』世界思想社].

von Wartburg, W. (1965) Evolution et structure de la langue française 3e éd., Berne[田島 宏他訳 (1976) 『フランス語の進化と構造』白水社].

今田 良信 (2002) 『古フランス語における語順研究―13世紀散文を資料体とした言語の体系と変化―』溪水社

國原 吉之助編著 (2007) 『新版 中世ラテン語入門』大学書林

島岡 茂 (1982) 『古フランス語文法』大学書林

 

以上